長崎県に『打坂というバス停』があります。
ここには日本で唯一、バス停にお地蔵さんと石碑が建っています。
昭和24年、原爆の治療に行くお年寄りや子どもを乗せた長崎自動車の木炭バスが、
坂道を登っている最中に突然エンジンが止まってしまいました。
by karin-sama
運転手はブレーキを踏んでエンジンを入れ直そうとしたましたが、
ブレーキが効きませんでした。
サイドブレーキを引いたら、サイドブレーキも効かない。
ギアを前進に入れて止めようとしたら、ギアも入らない。
三重の故障が重なって、バスが後ろ向きに暴走を始めました。
戦争で鉄を供出してしまい、ガードレールなどの支えもなく、落ちてしまえば助かりません。
運転手は慌てて、鬼塚道男車掌に向かって
「鬼塚!すぐ飛び降りろ!石でも、棒きれでもなんでもよかけん車の下に敷け!」
と叫びました。
鬼塚さんはバスから飛び降りると、近くにあるものを片っ端から車の下に敷きましたが、
加速度のついたバスの勢いには勝てませんでした。
断崖絶壁まで4、5メートルというところまで来たときに、
やっとバスは奇跡的に止まりました。
鬼塚さんは、『止まらないバス』をどうやって止めたのか?
乗客がバスから降りて、みんなが落ち着いてきた頃、
車掌の鬼塚さんがいないことに気づきました。
しかしどこを探しても鬼塚さんは見つかりません。
一人の乗客が「バスの後車輪から靴が見えてる!」と叫びました。
近づいてみると、それは、車掌の鬼塚さんでした。
鬼塚さんはどうしても止まらないバスを、自分の身を挺して車止めとなり、
車輪の下で息絶えていました。
乗客が口々に「この鬼塚という若い車掌さんは我々を助けるために生まれてきた、きっと神様か仏様の生まれ変わりに違いない」と感謝を述べました。
26年後の昭和48年、新聞の片隅にこの事件のことが掲載されました。
偶然その記事を目にした長崎自動車の社長が
「こんな立派な車掌がいたことを忘れてはいけない」と、その日のうちに役員会を開いたそうです。
それから1年もしないうちにバス停の横には、鬼塚さんを称える記念碑が建てられました。
今でも事故のあった9月1日には鬼塚さんの慰霊祭と安全祈願祭が行われています。
現在、鬼塚さんの身よりは誰もいませんが、いつもこのお地蔵様と石碑は綺麗に掃除され、
花が飾られています。
鬼塚さんは21歳という若さで亡くなられました。
短い人生でしたが、今でも人々心の中に生き続けているのです。
私はこの話を思い出すたびに「私はこの鬼塚車掌のようにいつまでも人の心の中に生き続けることができるような生き方をしているか」問い直しています。